2019年3月21日木曜日

クナ族独立革命の父 ネレ・カントーレ


独立心旺盛なクナ族は、その歴史の中で、スペイン人や他のインディオ、そしてパナマ政府を相手に、数限りない戦いを繰り返してきた歴史があります。

1920年代半ば、パナマ政府は、クナ族に対して民族同化の弾圧を行いました。

クナ族の女性は、その過程の中で、モラスタイルからパナマスタイルへと衣装を変えた女性もいたとされています。

1925年、一部のクナ族の反乱から、パナマ政府に対して、自治権獲得の運動へと発展することになりました。

「Nele Kantule」の画像検索結果クナ族の大酋長であるネレ・カントーレ(1868~1944)は、クナの民族を一つにまとめていきました。その結果、アメリカの調停にも助けられ、ようやく自治権を獲得したのです。

この権利は、パナマに属しながらも、パナマ政府の干渉は受けないという、クナ族にとって、画期的で特殊な地位を確立することとなりました。

今でも、独立の父、ネレ・カントーレはクナ族全体の尊敬を集めています

彼の出身島であるウストゥプ島の住民は、サン・ブラスの島々の中でも民族意識がひときわ高く、クナ族のリーダー的役割を自負しています。

次々と他の島が観光化していくなかで、ウストゥプ島の人々が頑ななまでに自分たちの生活を守り続けているのは、彼らの誇りの高さゆえであるとされているのです。

 クナ女性の伝統的で美しいモラは、クナ族の主体性を象徴する重要な衣装の対象となったのです。

※動画は、クナ族独立革命のイメージ



2019年3月17日日曜日

クナ族独立革命


季刊民俗学という本の中に、クナ族に書いている箇所があります。

「クナ族は、もともと大陸のジャングル地帯に住んでいました。
しかし、ジャングル特有の高温多湿の気候や蔓延するマラリアなどの病気、フランスのユグノー教徒など他民族からの迫害を逃れ、18世紀末から19世紀にかけて、サン・ブラスの島々に移り住んで来た」とされています。

その結果、クナ族は、他民族に対しては、やや排他的なところがあるといわれています。

しかし、カリブ海という地の利を生かして、コロンビアやアメリカと交易するなど、海外との接触は常に保ってきたようです。

「世界の手芸紀行3」(NHK取材班)には「サン・ブラス諸島の一つであるウストゥプ島の船着き場には、今でも毎日、コロンビアからの貿易船が着岸して、石鹸や衣料などの日常物資を持ち込んでいる」と記されています。

サンブラスの島々へ向かうツアー船
そのため、やや排他的で、自給自足の生活を基本としているクナ族は、徐々に現代文明の影響を受けています。

サンブラスでは、クナの子どもたちはドラゴンボールやポケモンが大好きです。

パナマ市内でも、Tシャツを着て歩くクナ族の女性もたくさん見かけるようにもなりました。


Tシャツでモラを売るクナ女性

旧市街地で見かけた若いクナ女性
 しかし、こうした近代化した波に直面しながらも、彼らが何物にも干渉を受けず、昔ながらの独自の文化や習慣、衣装、言語などを守りながら、平和に暮らしているのは、1925年に起こったクナ族独立革命による自治権獲得の歴史があったからなのです。





2019年1月6日日曜日

パナマとクナ族の歴史



 クナ族は、クナ語という独自の言語
を持っています。
 しかも、文字を持たなかったため、
彼らの歴史は定かではありません。 

 これは私見ですが、詳しいクナ族の
史が載っている本や文献は、パナマ
やアメリカ、ヨーロッパにはきっとあ
ると思うのです。

 残念ながら、外国の本を調べたり、
見つけたりする術(すべ)ありま
せん。
 しかし、実は日本にもクナ族に関す
歴史や興味内容が載っている
本は出版されています。

 それは、「世界の手芸紀行3 モラ・
グアマラの織物編」(NHK取材班著)
「フリーハンドのモラづくり」(小林
早苗先生著)です。
 この2冊には、クナ族やモラに関して
面白い内容が見られます。

 それを参考に「パナマとクナ族の歴
史」を簡単な年表にまとてみました。

 文字に色がついている箇所は、クナ族
に関わる事柄です。 

 パナマとクナ族の歴史
1492
コロンブスが新大陸を発見。以来、大西洋を越えてヨーロッパの列強、スペイン、イギリス、フランスなどによる侵略と支配の歴史が始まる。
1513
・スペイン人の冒険家バルボアが、クナ族の情報と助けを得て、南の海、太平洋を発見。
・パナマ地峡は大西洋と太平洋間の交通の要衝として重視され、後の運河建設につながる。
・バルボアによる太平洋発見が、スペインの南米大陸侵略の足がかりとなる。
・バルボアはパナマの通貨単位として使われている。
・バルボアはクナ族酋長の娘と内縁関係にあった。
1521
スペイン人エルナン・コルテスによりアステカ帝国征服。
1533
スペイン人フランシスコ・ピサロによりインカ帝国征服。パナマは常に勢力拡張・物資輸送の拠点であった。
17171739
パナマは、スペインの植民地ヌエバ・グラナダ副王領に編入される。
(現在のエクアドル・ベネズエラ・パナマを含む)
1821
パナマはスペインから独立を宣言。同時に主体的にグラン・コロンビアに加わる。
1830
ベネズエラとエクアドルが分離したためグラン・コロンビアは解体。
1831
ヌエバ・グラナダ共和国が成立。(パナマとコロンビアを含む)
1840
年代
アメリカ東部から同国太平洋岸への移住と、カリフォルニアでの一攫千金を狙うゴールドラッシュにより、陸橋として多大な利用がなされる。パナマ地峡横断の必要性がより増す。
1850
アメリカによりパナマ鉄道建設着工。
1855
パナマ鉄道完成。以後15年間、アメリカ大陸横断鉄道開通まで活況を呈した。
1880
スエズ運河建設を成功させたフランス人ド・レセップスによりパナマ運河建設着工。
1888
フランスはパナマ運河建設を断念。マラリアによる人的被害や技術面、資金面などにより失敗。
1903
パナマ共和国は、アメリカの支援によりヌエバ・グラナダ共和国より独立。見返りとして運河条約調印。
アメリカは運河建設に関する権利と運河地帯の永久租借権などを獲得。パナマの主権を無視した不平等条約であった。
1914
パナマ運河開通。アメリカ人軍医ゴーガスのマラリア対策が成功の大きな要因。
1920年代半ば
クナ族に対して、パナマ政府や警察による民族同化の弾圧が行われた。
1925
一部のクナ族の反乱から、自治権獲得の運動へと発展。
自治権獲得。サン・ブラス地域(サン・ブラス諸島およびパナマ東岸沿いの地域)は、クナ族の保留地となる。
1936
パナマの権利改正を認めた友好協力一般条約調印。
1962
アメリカ橋開通。南北アメリカ大陸は運河開通により切断されたようなもので、この橋によって唯一陸上移動が出来る。
1977
新運河条約成立。これにより運河返還が約束される。
1999
1231日、運河は完全にパナマ国家に返還された。パナマ国内での反米運動、ナショナリズムの芽生え、軍事政権の支配。又、パナマ・アメリカ両国間をとりまく国際状勢の変化などを経て、ようやく主権国家として独立を果たしたことになる。


2018年12月2日日曜日

クナ族のふるさと サンブラス諸島


5万人ともいわれるパナマの先住民クナ族は、パナマの北東部のカリブ海沿岸からコロンビア国境にかけて、365以上の島々が散らばるサンブラス諸島に住んでいます。

エメラルドグリーンの海に真っ白な砂浜が広がるサンブラス諸島の島々の大半は無人島で、実際に人が住んでいるのは40あまりの島々と言われています。

しかし、私が、サンブラスを旅した限り、1家族しか住まない小さな島もたくさんあり、人の住む島は、実際にはもっともっと多いと思うのです。


パナマシティーからサンブラス諸島へ行くには、以前は飛行機で行くことが当たり前でした。しかし、今では、道路も整備され、ホテル発着で車で行くことができる日帰りツアーが主流になっています。

私もサンブラス諸島には今まで3回行きました。去年パナマに行った時は、私も車での日帰りツアーでサンブラスに行きました。

初めて私がサンブラス諸島に行ったのは、今から20年ほど前です。その時のことは、今でも懐かしい思い出としてよく覚えています。

その当時、私はフェルナンドというクナ族の男性と友達になりました。フェルナンドはパナマシティでホラ貝などを売っていましたが、サンブラス諸島でもホテルを経営していました。

そんな縁もあり、初めてサンブラスに行った時、私は彼のホテルに泊まりました。
宿泊客は、私一人しかいません。昼はイルカがたくさん見える離島に行ったり、夜はあまりにもきれいな星空が見えたり、まるで別世界に迷い込んだ感じがしました。もちろん、いろいろな島でたくさんのモラを見たことも懐かしくはっきり覚えています。

サンブラスに泊まられた方は、信じられないと思うかもしれませんが、フェルナンドのホテルはなんと水洗トイレがありました。
しかも、その島には公衆電話があり、いつもクナ族が、列をつくってその公衆電話からパナマシティーにいる親戚や家族に電話をしていました。

私は、公衆電話があること自体に驚いたのですが、本当にサンブラスからパナマシティーに電話がつながるのか疑問でした。そこで、私もパナマに住んでいる友達の家に電話をしたことを覚えています。なんと本当につながったのです。

 あれから20年。今ではパナマはスマホ天国です。サンブラスに住んでいるクナ族たちも格安にスマホや携帯電話を利用しているのです。


2018年8月11日土曜日

モラの話3 モラの発達


モラ作家の小林早苗先生は、著書「フリーハンドのモラ作り」の中で、
記録上明らかな最古のモラについて、下記のように記しています。

1909年、エレノア・ベルはクナ族の集落を訪れ、この時収集されたモラはスミソニアン博物館に現存しています。記録上明らかなモラとしては一番古いものです。」

「彼女達は短いスカートと色布のシミーズのような物を衣服としている。これはとても奇妙なデザインで形作られていて、いくつかの層があり、ていねいにアップリケされている。」と述べています。

1912年、初めてモラを着たクナ族の女性が写真撮影されている。この時の女性は、無地や既製のプリントで、大きなヨークと小さくて短い袖で作られた長いシミーズのようなブラウスを着ている。」

「ある物はブラウスの裾に沿ってモラが細工され、別の物はモラの細工がブロードのパネルになされて、大きなヨークに垂れ下がっている。」と説明しています。


また、1922年には、イギリス人で探検家のレディ・リッチモンド・ブラウンがサン・ブラス諸島及びパナマ本土山間部ダリエンを探検した際に、
「女性は鮮やかなデザインのスカーフで頭と顔をほとんど覆い、びっくりするような上部から成るブラウス(というより上着)に、別布の腰巻をつけている。」という、モラを着た女性についての記述を残してます。

レディ・リッチモンド・ブラウン
レディ・リッチモンド・ブラウンは、この時、1600枚にも及ぶモラをイギリスに持ち帰ったそうです。

これらのことから、時代が進むにつれて、ゆったりしていたモラの服装は、体の線に沿った服装になり、モラブラウスの上に腰巻を巻き付けた現代のスタイルへと変化していきます。

そして、100年足らずの間にモラは発展し、20世紀には現在のモラファッションが確立していたといえるのではないでしょうか。

多彩な色布の入手が容易になっている現在では、ボディペイントで描かれていた魔除け目的の模様が、装飾性の強いものに変化していき、クナ族の女性が自分自身を飾るために多彩な色を使い、おしゃれに磨きをかけているようにみえるのです。
20世紀前半頃のモラ(オールドモラ) 


2018年8月6日月曜日

モラの話2 モラの誕生


今から約200年前、19世紀半ばごろ、クナ族の住む島サンブラス諸島にキリスト教が入ってきました。宣教師たちは、キリスト教の布教だけだなく、クナ族の服装にも影響を与えたといわれています。

モラ作家であり、モラの研究者として有名な宮崎ツヤ子先生は、
「モラ カリブの民族手芸を楽しむ」の著書の中で、
「クナ族の女性に用いられたのは西欧のシャツやブラウスではなく、昔ながらのサックドレスであった。サックドレスは、特別の人が特別の機会(儀式)に着るものであったが、布地が手に入るようになるにつれ、着る人の層が広がり、着る機会も増えたものと思われる。しかし、膝丈のサックドレスを着るようになると、せっかく描いたスカートの模様が下に隠れて見えなくなってしまうので、その模様をサックドレスに移そうという試みが、モラの発生につながっていったと考えられる。」と書かれています。

つまり、モラの歴史は、この寸胴形のサックドレスの裾の部分から始まります。

 初めは別色の布でぐるりと帯状についていたサックドレスだけでしたが、やがて、ごく簡単な刺繍が施されるようになり、その刺繍の部分の幅が徐々に広がってモラに発展していったのです。

「最初の頃のモラは、おそらくシンプルな幾何模様ではなかったかと想像される。連続した線模様を布で表現したいとクナの女性たちが願ったときに、モラの手法が考え出されたのではないだろうか。布を二枚重ね合わせ、上の布をごく細長い短冊形に切りぬくと、下の布が線状になって現れる。その線を固定するために針と糸が使われる。この原理の実践がモラ刺しゅうの出発点であろう。」と述べています。

さらに、「色を増すためには、さらにもう一枚布を重ね、すでにでき上った線(ライン)のまわりに沿ってカットし、下の二色をのぞかせながらまつり縫いをするのである。」とモラの特色を述べています。

また、立教大学の石堀真弓先生は、
「モラ クナ族の民族衣装と民族意識についての一考察」の中で、
「モラの誕生について、貴重だった布を長持ちさせるためにかぎ裂き繕いを利用して模様にすることを考え出したのではないかと考えている。」と述べています。

お二人の考えをまとめると、単に布に模様を描いたり、布を繕ったりするだけではなく、繕いを通して模様を描いていったのだと考えることができます。
そして、徐々に手に入ってきた色布を重ねていき、複数色の丈夫なモラが誕生したのではないでしょうか。

宮崎先生は、「モラのついた初期の頃の服は、膝丈まであり、身幅もゆったりしていたが、現在用いられているようなプリント模様のスカート生地が大量に出回り、服の上から巻くオーバースカートとして用いられるようになると、このモラワンピースの丈は急速に短くなり、モラの部分が胸元まで上がってきた。これがモラブラウスの始まりといえる」と述べています。

昔は、丈が長く、刺繍も簡素なサックドレスを身に付けていたクナ族が、百年足らずで、今では、素晴らしい刺繍を施したモラを身に付けるようになりました。
なぜ、こんな短期間にこんなにも素晴らしい刺繍が縫えるようになったのでしょうか。

私が出会ったクナ族たちは、毎日毎日、何時間もただひたすらモラを縫っています。
小さい頃(小学生の頃)から人生を終わるまで、ただただ縫い続けているのです。

私は、たくさんのモラを見てきました。
人がどうして手縫いだけで、こんなにも素晴らしい刺繍を縫うことができるのか、その驚きと感動を一緒に語り合えたらどんなに嬉しいかと思うのです。
モラを売るクナ族の女性 胸には素晴らしいモラの刺繍です

クナ族の女性は、頭はみんな赤色のスカーフをしています


2018年7月14日土曜日

モラの話1 モラの起源


モラは、原始的な模様のせいか、ずいぶん昔からつくられているように思われていますが、実は、20世紀になってから急に発達したものだといわれています。
モラを縫うクナ族は、長い間、鎖国状態を守ってきたので、外国人による記録は、あまり残っていません。

 初めてクナ族の記録が見つかったのは、17世紀後半に、海賊船に乗り込んでいた英国人の外科医であるライオネル・ウォーファーの本といわれています。

 彼は、1681年、負傷してクナ族に助けられました。そして、数ヶ月間クナ族とともに暮らし、その経験をもとに記録を残したのです。

 その中には「女性は膝丈のスカート。男性は頭から足まで、はでな刺青かボディペイントが、女性によってなされていた」「……女たちは絵かきだ。とても楽しそうに絵を描く。彼女たちが一番多く使うお気に入りの塗料は、目のさめるように美しい赤、黄、ブルーである。……鳥、動物、人、木などを身体中いたるところ、特に顔に描く。……彼女たちが空想のままに描いた次元の違う絵なのである」と。

 ウォーファーは、この民族は男性も女性も日常的には上半身裸で、露出した肌に、さまざまな色のボディー・ペインティングを描いていたという記録を残しています。

 クナの女性たちは、露出した肌に、様々な色を使って、思いのまま創造力豊かな模様を身体に描いたのではないかと推測できます。

 これらのことから、クナ族のボディー・ペインティングがだんだんと発展して、今のモラの誕生のもとになったのではないかということは、容易に想像できます。

 また、ウォーファーは、儀式用のドレスの裾に刺しゅうがほどこされているのを見たという記述も残しています。ただ、何も証拠となる物が残っていないので、今となっては、クナ族自身でさえ、その起源を語ることはできないのではないでしょうか。

 もとは魔除けのためのボディー・ペインティングが、だんだんとおしゃれを目的とした装飾性の強いものに変わっていき、それが現在のモラに変化したという、大方の類推は、もっともなことのように思われます。

 また、モラの誕生は、クナ族がパナマ本土のジャングルから島へ移住した時期と重なります。当時のモラは、ブラウスというよりワンピースに近く、モラ自体もずいぶん大きいものでした。