2018年12月2日日曜日

クナ族のふるさと サンブラス諸島


5万人ともいわれるパナマの先住民クナ族は、パナマの北東部のカリブ海沿岸からコロンビア国境にかけて、365以上の島々が散らばるサンブラス諸島に住んでいます。

エメラルドグリーンの海に真っ白な砂浜が広がるサンブラス諸島の島々の大半は無人島で、実際に人が住んでいるのは40あまりの島々と言われています。

しかし、私が、サンブラスを旅した限り、1家族しか住まない小さな島もたくさんあり、人の住む島は、実際にはもっともっと多いと思うのです。


パナマシティーからサンブラス諸島へ行くには、以前は飛行機で行くことが当たり前でした。しかし、今では、道路も整備され、ホテル発着で車で行くことができる日帰りツアーが主流になっています。

私もサンブラス諸島には今まで3回行きました。去年パナマに行った時は、私も車での日帰りツアーでサンブラスに行きました。

初めて私がサンブラス諸島に行ったのは、今から20年ほど前です。その時のことは、今でも懐かしい思い出としてよく覚えています。

その当時、私はフェルナンドというクナ族の男性と友達になりました。フェルナンドはパナマシティでホラ貝などを売っていましたが、サンブラス諸島でもホテルを経営していました。

そんな縁もあり、初めてサンブラスに行った時、私は彼のホテルに泊まりました。
宿泊客は、私一人しかいません。昼はイルカがたくさん見える離島に行ったり、夜はあまりにもきれいな星空が見えたり、まるで別世界に迷い込んだ感じがしました。もちろん、いろいろな島でたくさんのモラを見たことも懐かしくはっきり覚えています。

サンブラスに泊まられた方は、信じられないと思うかもしれませんが、フェルナンドのホテルはなんと水洗トイレがありました。
しかも、その島には公衆電話があり、いつもクナ族が、列をつくってその公衆電話からパナマシティーにいる親戚や家族に電話をしていました。

私は、公衆電話があること自体に驚いたのですが、本当にサンブラスからパナマシティーに電話がつながるのか疑問でした。そこで、私もパナマに住んでいる友達の家に電話をしたことを覚えています。なんと本当につながったのです。

 あれから20年。今ではパナマはスマホ天国です。サンブラスに住んでいるクナ族たちも格安にスマホや携帯電話を利用しているのです。


2018年8月11日土曜日

モラの話3 モラの発達


モラ作家の小林早苗先生は、著書「フリーハンドのモラ作り」の中で、
記録上明らかな最古のモラについて、下記のように記しています。

1909年、エレノア・ベルはクナ族の集落を訪れ、この時収集されたモラはスミソニアン博物館に現存しています。記録上明らかなモラとしては一番古いものです。」

「彼女達は短いスカートと色布のシミーズのような物を衣服としている。これはとても奇妙なデザインで形作られていて、いくつかの層があり、ていねいにアップリケされている。」と述べています。

1912年、初めてモラを着たクナ族の女性が写真撮影されている。この時の女性は、無地や既製のプリントで、大きなヨークと小さくて短い袖で作られた長いシミーズのようなブラウスを着ている。」

「ある物はブラウスの裾に沿ってモラが細工され、別の物はモラの細工がブロードのパネルになされて、大きなヨークに垂れ下がっている。」と説明しています。


また、1922年には、イギリス人で探検家のレディ・リッチモンド・ブラウンがサン・ブラス諸島及びパナマ本土山間部ダリエンを探検した際に、
「女性は鮮やかなデザインのスカーフで頭と顔をほとんど覆い、びっくりするような上部から成るブラウス(というより上着)に、別布の腰巻をつけている。」という、モラを着た女性についての記述を残してます。

レディ・リッチモンド・ブラウン
レディ・リッチモンド・ブラウンは、この時、1600枚にも及ぶモラをイギリスに持ち帰ったそうです。

これらのことから、時代が進むにつれて、ゆったりしていたモラの服装は、体の線に沿った服装になり、モラブラウスの上に腰巻を巻き付けた現代のスタイルへと変化していきます。

そして、100年足らずの間にモラは発展し、20世紀には現在のモラファッションが確立していたといえるのではないでしょうか。

多彩な色布の入手が容易になっている現在では、ボディペイントで描かれていた魔除け目的の模様が、装飾性の強いものに変化していき、クナ族の女性が自分自身を飾るために多彩な色を使い、おしゃれに磨きをかけているようにみえるのです。
20世紀前半頃のモラ(オールドモラ) 


2018年8月6日月曜日

モラの話2 モラの誕生


今から約200年前、19世紀半ばごろ、クナ族の住む島サンブラス諸島にキリスト教が入ってきました。宣教師たちは、キリスト教の布教だけだなく、クナ族の服装にも影響を与えたといわれています。

モラ作家であり、モラの研究者として有名な宮崎ツヤ子先生は、
「モラ カリブの民族手芸を楽しむ」の著書の中で、
「クナ族の女性に用いられたのは西欧のシャツやブラウスではなく、昔ながらのサックドレスであった。サックドレスは、特別の人が特別の機会(儀式)に着るものであったが、布地が手に入るようになるにつれ、着る人の層が広がり、着る機会も増えたものと思われる。しかし、膝丈のサックドレスを着るようになると、せっかく描いたスカートの模様が下に隠れて見えなくなってしまうので、その模様をサックドレスに移そうという試みが、モラの発生につながっていったと考えられる。」と書かれています。

つまり、モラの歴史は、この寸胴形のサックドレスの裾の部分から始まります。

 初めは別色の布でぐるりと帯状についていたサックドレスだけでしたが、やがて、ごく簡単な刺繍が施されるようになり、その刺繍の部分の幅が徐々に広がってモラに発展していったのです。

「最初の頃のモラは、おそらくシンプルな幾何模様ではなかったかと想像される。連続した線模様を布で表現したいとクナの女性たちが願ったときに、モラの手法が考え出されたのではないだろうか。布を二枚重ね合わせ、上の布をごく細長い短冊形に切りぬくと、下の布が線状になって現れる。その線を固定するために針と糸が使われる。この原理の実践がモラ刺しゅうの出発点であろう。」と述べています。

さらに、「色を増すためには、さらにもう一枚布を重ね、すでにでき上った線(ライン)のまわりに沿ってカットし、下の二色をのぞかせながらまつり縫いをするのである。」とモラの特色を述べています。

また、立教大学の石堀真弓先生は、
「モラ クナ族の民族衣装と民族意識についての一考察」の中で、
「モラの誕生について、貴重だった布を長持ちさせるためにかぎ裂き繕いを利用して模様にすることを考え出したのではないかと考えている。」と述べています。

お二人の考えをまとめると、単に布に模様を描いたり、布を繕ったりするだけではなく、繕いを通して模様を描いていったのだと考えることができます。
そして、徐々に手に入ってきた色布を重ねていき、複数色の丈夫なモラが誕生したのではないでしょうか。

宮崎先生は、「モラのついた初期の頃の服は、膝丈まであり、身幅もゆったりしていたが、現在用いられているようなプリント模様のスカート生地が大量に出回り、服の上から巻くオーバースカートとして用いられるようになると、このモラワンピースの丈は急速に短くなり、モラの部分が胸元まで上がってきた。これがモラブラウスの始まりといえる」と述べています。

昔は、丈が長く、刺繍も簡素なサックドレスを身に付けていたクナ族が、百年足らずで、今では、素晴らしい刺繍を施したモラを身に付けるようになりました。
なぜ、こんな短期間にこんなにも素晴らしい刺繍が縫えるようになったのでしょうか。

私が出会ったクナ族たちは、毎日毎日、何時間もただひたすらモラを縫っています。
小さい頃(小学生の頃)から人生を終わるまで、ただただ縫い続けているのです。

私は、たくさんのモラを見てきました。
人がどうして手縫いだけで、こんなにも素晴らしい刺繍を縫うことができるのか、その驚きと感動を一緒に語り合えたらどんなに嬉しいかと思うのです。
モラを売るクナ族の女性 胸には素晴らしいモラの刺繍です

クナ族の女性は、頭はみんな赤色のスカーフをしています


2018年7月14日土曜日

モラの話1 モラの起源


モラは、原始的な模様のせいか、ずいぶん昔からつくられているように思われていますが、実は、20世紀になってから急に発達したものだといわれています。
モラを縫うクナ族は、長い間、鎖国状態を守ってきたので、外国人による記録は、あまり残っていません。

 初めてクナ族の記録が見つかったのは、17世紀後半に、海賊船に乗り込んでいた英国人の外科医であるライオネル・ウォーファーの本といわれています。

 彼は、1681年、負傷してクナ族に助けられました。そして、数ヶ月間クナ族とともに暮らし、その経験をもとに記録を残したのです。

 その中には「女性は膝丈のスカート。男性は頭から足まで、はでな刺青かボディペイントが、女性によってなされていた」「……女たちは絵かきだ。とても楽しそうに絵を描く。彼女たちが一番多く使うお気に入りの塗料は、目のさめるように美しい赤、黄、ブルーである。……鳥、動物、人、木などを身体中いたるところ、特に顔に描く。……彼女たちが空想のままに描いた次元の違う絵なのである」と。

 ウォーファーは、この民族は男性も女性も日常的には上半身裸で、露出した肌に、さまざまな色のボディー・ペインティングを描いていたという記録を残しています。

 クナの女性たちは、露出した肌に、様々な色を使って、思いのまま創造力豊かな模様を身体に描いたのではないかと推測できます。

 これらのことから、クナ族のボディー・ペインティングがだんだんと発展して、今のモラの誕生のもとになったのではないかということは、容易に想像できます。

 また、ウォーファーは、儀式用のドレスの裾に刺しゅうがほどこされているのを見たという記述も残しています。ただ、何も証拠となる物が残っていないので、今となっては、クナ族自身でさえ、その起源を語ることはできないのではないでしょうか。

 もとは魔除けのためのボディー・ペインティングが、だんだんとおしゃれを目的とした装飾性の強いものに変わっていき、それが現在のモラに変化したという、大方の類推は、もっともなことのように思われます。

 また、モラの誕生は、クナ族がパナマ本土のジャングルから島へ移住した時期と重なります。当時のモラは、ブラウスというよりワンピースに近く、モラ自体もずいぶん大きいものでした。

2018年1月27日土曜日

パナマシティー

 パナマというと、どんなイメージを持つでしょうか。
イメージが全くわかないという人がほとんどではないでしょうか。

 「パナマ運河」や「パナマ帽」ぐらいの名前は聞いたことはあるかもしれませんが、パナマがどんな国なのか、パナマの街がどんな感じなのか、今では、You Tubeなどで容易に見ることはできます。
 しかし、実際に行き、肌で感じないと実感としてわからないものです。

 私も昨年パナマに行きました。
 パナマシティーの新市街地という場所は、大きく変わりました。超高層ビルが林立し、まさに中米の摩天楼です。
パナマシティー 新市街地
高層マンションやホテルもたくさんあります
右の海は太平洋
経済的にも発展し、治安も相当よくなっているようです。
 本当に驚きました。
 
 しかし、タクシーの運転手に聞くと「街は発展したけど、俺たちの暮らしは昔も今もかわらないよ」と言っていました。
 モラを作るクナ族も同じです。
 豊かな生活をしているクナ族は少ないです。
 昔も今も。

2018年1月22日月曜日

釘付けモラ

 その美しさに魅了されたり、心を奪われたりすることを「目が釘付けになる」といいます。
 モラに出会うとき、「目が釘付けになる」モラも少なくありません。
 
ゾウの刺繍モラ
カバの刺繍モラ
この2枚のモラもそうです。
 実際に見てもらいたいまさに「釘付けモラ」です。
 
 かわいいゾウとカバのモラです。 
 大きなモラではありません。
 でも、その繊細で素晴らしいとしかいえない刺繍は、これが人の手だけで作れるものかと思うほど、ただただ感動するばかりです。 
 
 このモラを見ていると、作ったクナ族のことを想像してしまいます。

 どれほどの時間をかけ、どんな気持ちで、モラを作ったのか・・・
けっして売るためではなく、わが子のために、心を込め、一生懸命作ったのだろう・・・
 
 完成した時の母親と喜ぶ子供の笑顔を感じます。
 
 

 

2018年1月21日日曜日

絵画モラ

カリブ海の魚モラ
鮮やかな鳥のモラ

 モラは、何枚か重ねた布を上からハサミで切り抜いて、下の布を見せるのがその大きな特徴です。

 しかし、中には布を器用に切って上に重ね、アップリケのようにして、まるで布で絵を描いたようなモラもあります。しかも様々なステッチで刺繍され、繊細で素晴らしいモラもたくさんあります。

 サンブラス諸島に行ったとき、クナ族に尋ねました。
「これはモラですか?」
「そう、これもモラだよ」
「それじゃ、何て言うの?」
「cuadro(クワドロ)だよ」
 cuadroとは、「絵」という意味です。なるほどと思いました。
 
 これらのモラを「モリータ」とか「アップリケモラ」と呼んでいる日本や海外のモラの店がありますが、当モランズショップでは、そのままの「絵画モラ」というカテゴリにしました。
 
 日本では、まだまだこのモラは知られていませんが、「絵画モラ」もクナ族の刺繍技術と創造力の高さがよくわかる手縫いの芸術です。


2018年1月4日木曜日

明けましておめでとうございます

今年は戌年。
かわいい犬のモラがありましたので、ちょっと張り付けてみました。

新しいモラが入りましたので、「モランズショップ」で近々更新します。

本年もよろしくお願いいたします。